今日は、Tolkien Writing Dayの企画に参加させていただき、この記事を書いています。


今回の感想は、かいつまんで…。

自伝等も確認している時間がなかったので、その点ご容赦ください。間違ってるところがありましたらご指摘ください。


この映画を日本で上映してくれて、観ることができたことは本当にラッキーだったと思います。

(宣伝については、問題点もあったように聞いております…。が、上映、この一点に関しては、配給会社様に感謝いたします。)

ロード・オブ・ザ・リングが三部であると知った時、あと二年先、三部まで見れますようにと願い望みました。天災や、もろもろ、また体調などもありましたから、言葉にするのはおこがましいのですが、生きて見ることができるだろうかというのは、実感としてあったと思います。 時は流れ、やや気持ちは呑気になっておりましたが、やはりホビット三部作の時もそうです。あの感謝の心を忘れずにいたいと思います。

今回は、創作物の映画化ではなく、トールキンの生涯についてという、レアな企画。こんな映画が実現するとは、ロード・オブ・ザ・リングシリーズにはまっていたときには、夢にも思いませんでした。

やはり、トールキンは偉大。世界中にファンがいる。それを示してくれたのではないでしょうか。


さて、内容についてです。ここは、ポイントを押さえて自分なりの疑問点にしぼります。

ますひとつは、ワーグナーについて。トールキンは「ニーベルングの指輪」と「指輪物語」の関係を否定していると思っていたのですが…。

エディスがワーグナーに心酔しており、オペラを観に出かけるシーンがあるので、まったく無視はできないのかな。


あともう一つ焦点をあてたいのは、トールキンの信仰、カトリックについてはあまり語られなかったなということ。

神父にエディスとの交際を21歳になるまで禁じられたとき、「なにもない人生は嫌だ」というようなことを言っていましたが、そのあたり、トールキンにも感情があったんだなと思いましたが、あくまでも映画。本当のところ、どんな風に耐えたのか。

手紙も禁じられていたと思いますが、映画では、エディスからは婚約と結婚の通知、トールキンからは戦争に行くことの連絡はしていた。それくらいのやりとりは許されていたのだろうか。

私は、まったくやりとりはできなかった、しなかったと思い込んでいた。

だから、エディスはもうトールキンは自分のことは忘れていると思っていて婚約し、そこにいきなりトールキンが表れて結婚を申し込み、しかもカトリックでないエディスをカトリックにさせた ― どんなやりとりで ―? ということが不満でした。正直言って。

なんだか、映画のように待ったり嫉妬や諦めがあったり、苦しみもあまり感じず(ということはないだろうけど)乗り越えて、エディスの宗教を変えさせることはさも当然、みたいな印象を抱いていたので。

映画の神父さんは、交際を禁じるのは、今やるべきこと(オックスフォードの試験に身を入れること、将来のこと)などを考えてのことで、戦争の傷から回復したときには「見る目があったな」と言葉をかけていたし、物事のわかる神父さんだなと思いました。今までの印象は、厳しいなあ…だったし、本当の意図がよくわからなかった。

そんな、あったかくない神父さんに、唐突すぎるトールキン。みたいな印象。

実際のところ、エディス、カトリックに改宗することは、今現代の日本などよりずっと厳しい試練。時代もだし、ましてイギリス。誰も理解してくれないし村八分のようになったのではなかっただろうか?

当時、カトリックの人と結婚するにはカトリックになるしかなかった?(逆もそうだろうな)のかなと思うけど、もし私だったら…まして寄り添うこともなく言われたら…嫌だし、なにより困る…。

現代の日本なら、カトリックとプロテスタントの場合、混宗婚の手続きがあるから結婚出来るだろうし、相手を自分の宗派(という言い方をするのかわからないが)にさせることもないだろう。

その点エディスは、大変な決心をしたと思う。私なら人に改宗させたくないな。だけど道はそれしかなかったのかな。つらいことだと思う。

その点はトールキンはどう考えていたのかな。


また、エディスうんぬんはともかくとしても、トールキンのカトリック信仰は強い。

そういうことが、映画ではあまり掘り下げられてはいなかったなあ…というのが、やや心残りでもあります。


映像としては、くるくるまわる幻燈みたいなもの、にファンタジーの源泉を見ることもでき、戦争シーンの恐ろしさも含め、幻想のような描き方もあり、独特な映像美が現実の中に相まってトールキン世界をよく表していたと思います。

私の大切な映画、になりました。公開はまだ遅れてあるところもあるし、日本中の人がもっと観てくれたらと願います。