ゆきて帰りし道で

映画と、児童文学と、絵本 etc.

他ブログから引っ越してきました。 まだ体裁やリンクが不完全です。内部リンク切れしています。

本(未分類)

「ノンニとマンニの冒険」
ヨーン・スウェンソン 作/山室静 訳
国土社(国土社版 世界の名作21)



ヨーン・スウェンソンという人の書いた、『ノンニとマンニのふしぎな冒険』という本があることを知った。
この人は、カトリックの神父さんらしいのです。
児童文学の名著みたいだったので、読んでみたく思いました。

『ノンニとマンニのふしぎな冒険』は読めなかったけれど、
昔でていた、『ノンニとマンニの冒険』を読みました。

訳の山室静さんが、解説で、
(この本の初版が1976年ですからその時点で)スウェンソンの書いたものの訳がいくつか日本でもでていて、
御自分でも二冊(『ノンニ少年の大航海』、『ノンニ兄弟の冒険』)を訳されたことを書いている。

でも私が読めたのは、この「ノンニとマンニの冒険」だけ。
「ノンニとマンニの冒険」、「鱒とり」、「アフリカの砂漠で」の3つのお話が入っています。

ノンニというのは、スウェンソン自身の少年時代の呼び名で、お話も、自分のことだそうです。
いくつもお話があるらしいですが、アイスランドで暮らした子ども時代のことを書いた話が一番楽しいと、山室さんがこの3つのお話を選んで収めたそうです。

今でている「ノンニとマンニのふしぎな冒険」はまた違うお話でしょうか。
読んでみたいものです。



スウェンソンと言う人は、昔、1937年に、日本にも来て、「第二のアンデルセン」などと新聞に書かれたんだそうです。

「日本アイスランド協会」 日本アイスランド協会サイトバナーのサイトに、
スウェンソンの訪日70周年記念の展示会とシンポジウムのことが載っていました。
2008年秋にあったんですね。知らなかった。

シンポジウム「アイスランドの神話・歴史とノンニ童話」というの、
司会は、あれ、伊藤盡さん、トールキンのエルフ語の研究している人だ!
わぁー、聞いてみたかったなあ。
(参考:HPの、『指輪物語 エルフ語を読む』の感想

 

鱒をとるノンニの奮闘には、誰もがひきつけられ頷くところがあるでしょう。
山を登るノンニと弟のマンニの冒険。ふたりが山の上から見た眺め。

白夜なのでしょう。
山から帰れないと困り始めたとき、既に夕日の時刻になっていたようですが、
それからの夜の長いこと。
ハラルドと過ごし、幼い二人は眠っても、ハラルドは、二人の家まで降りて二人の安全を報告して戻ってくるのですから。
夜中におきた二人が外にでると、山は夜のはずなのに、うっとりとした色に染まっています。

西は、青く、
「数かぎりない色合いを持ち」(p.117)

東は、炎のように火のように輝きます。

「山の頂という頂には、すべてまっかに燃える炎がそそぎかけられていた。しかも、まわりのすべてがなんと厳粛に静まりかえっていたことか! 大きな山地全体が、まるで深い祈りにふけっているかのように――」(p.118)


美しいです。

『ノンニとマンニの冒険』、読めてよかったです。
スウェンソンの書いたシリーズがいくつもお話があっても、絶版になっているのが惜しいです。

「おばあちゃんのキルト」
ナタリー・キンジーワーノック 作/上田理子 訳/狩野富貴子 絵
文研出版



本当は、トミー・デ・パオラの絵の、同名の本を読むつもりだったのが、
書庫から出してもらったら違ったのを、気づかずに帰ってきました。*1

せっかくなので、読む事にしました。

小学生くらいの子でもやさしく読める作品だと思います。

絵の狩野富貴子さんは、奥付のページで『ちいさなチャンタラ』という絵本の人だと知りました。

やさしくかわいらしい絵がらです。
でも、私は外国の作品はどうも外国の人の絵で読みたいと思ってしまうほうなので、
その点はちょっと残念でした。

内容は、作者の人が、バーモント州出身で、そのバーモント州を舞台にしています。
少女アリエルの成長物語、といってしまえばそれだけかもしれないけれど、
自然に囲まれた暮らし、鳥のガン(カナダガン)のむれを見つめるアリエルの思いが、
伝わってきます。

弟か、妹が生まれるアリエルのお家。
嬉しいけれど不安なアリエルをおばあちゃんが包みます。
赤ん坊におくるキルトをつくるのに、アリエルの絵の才能を見たおばあちゃんは、
デザインを頼みます。

アメリカ先住民の伝説に、「星は太陽の子どもたち」、というのがあるそうです。
太陽が、星を起こすのを忘れると、そんな夜はまっくらになります。
でも、星を見上げるアリエルに、星は眠っていないで輝いています。

「ただね、わたしは、あんたには、夜空のほうがにあう、と思ったんだよ。」(p.112)


ガンのむれ、季節の移り。
自然を感じて育った作者の思いが、表れているように思いました。




キンジーワーノックさんは、メアリー・アゼアリアンの絵本にもなっているようだし、*2
他にも本があるようです*3。読んでみたいです。


*1(追記)
トミー・デ・パオラの『おばあちゃんのキルト』読みました
 
*2(追記)
『夜明けまえから暗くなるまで』読みました

*3(追記)
『スウィート・メモリーズ』読みました

「すえっこOちゃん」
エディス=ウンネルスタッド 作/ルイス=スロボドキン 画/
石井桃子 訳
フェリシモ出版



『ムッドレのくびかざり』『マツの木の王子』につづき、フェリシモ出版の本から。
訳は石井桃子さんです。

絵のスロボドキンは、名前は聞いたことがあるけれど、
他ではまだ絵を見たことがないように思う。

スウェーデンに住む、ピップ=ラルソン家のきょうだい7人のすえっこのOちゃん
まだ小さいんですよ。五つ。
本当の名前は、オフェリア。だけどただO(オー)ちゃんと呼ばれています。
他のお姉さん、お兄さんも、シェークスピア劇に出てくるという名前、
例えばデズデモーナなんていう名前を持っていますが、普段はデッシと呼ばれてます。
デッシ姉さんはもう十九で、Oちゃんの世話もしてくれます。

Oちゃんが巻き起こす騒動や、普段の生活の中で末っ子の小さい子が味わう気持ちが、
明るいタッチで描かれます。
国や生活、兄弟の数や文化は違っても、木にのぼったOちゃんの気持ちなんか、よくわかりますね。


無邪気で、しかしおそるべし、Oちゃん。
「いやはや!」(p.46)
「Oちゃんにもおそれいった……」(p.47)

リンドキストさんの声が、聞こえてきそうです。

Oちゃんのリボンをたくさん頭につけたラッセ兄さん、好きなアグネータがユーモアがわかってよかったね。
『カルメンシータの歌』を一緒に演奏してくれた先生。
子犬を飼うようになったわけ。
おたふくかぜと、冷たいアイスクリーム。

ほほえましく、どこか懐かしい、エピソードの数かずです。

学校の卒業試験の日に、飾り付けた馬車などで祝うところは、スウェーデンの風習に驚きました。

「訳者あとがき」によりますと、
以前、学習研究社からでていた本の復刻です。
下村隆一さんというかたとの、共訳でした。

下村さんはスウェーデン語から、石井さんは、当時イギリスで出版されていた英訳のものから、邦訳をすすめていたそうですが、下村さんは最後の章を残して、お亡くなりになりました。

石井さんは、最後の章を英訳から
「痛恨の思いで」(p.210)
訳されたそうです。
復刊にあたり、2002年現在、下村さんのご遺族とは連絡が取れていないようでした…。
編集部からは、「ご連絡いただきたい」旨が記されていましたが、どうなったのでしょうか…。


(追記)
奥付の原書の表記を見ると、
原題が「PIP-LARSSONS LILLA O」となっています。
こちらが、スウェーデン語の題名で、
表紙などに「LITTLE O」とあるのは、英訳のほうの題名でしょうか?

「LILLA」って、「小さい」のことでしょうか。
ベスコフの『ちいさな ちいさな おばあちゃん』の原題も、LILLA って入っていました。
(参考:HPの、『ちいさな ちいさな おばあちゃん』の表記

「チョコレート工場の秘密」
ロアルド・ダール 作/田村隆一 訳
評論社(てのり文庫)



旧版のほうで読みました。

ジョニー・デップの映画は見ました。
(参考:HPの、映画の感想

映画の、独特の雰囲気、奇抜な感じは、監督の独特なセンスなのかな、と思っていました。
でも、本を読んだら、(それは違うところもありましたが)ほとんど、ストーリーはそのままと思えました。
ワンカさんの年齢とか(キャラクターも)、ラストシーンや、砂糖の船の大きさなんか違うかな?とかそういうのはありましたが、
寝台が一つしかなくて、そこでお年寄りたちが寝ているとかは、本当に本でもそうだった。
だけど、それでも、なにか他のものを見たような感じ。そんなに独特に感じなかったんですよ。

それでもウンパ・ルンパ族が歌うところは、映画を思い出しました。

ワンカさんが皆の目の前に現れたときの絵が好き!

シルクハット干ブドウ色の燕尾服
山羊ひげをはやし、顔は明るく輝き、利口そうで、リスみたいにすばやいワンカさん!

ジョセフ・シンデルマンという人の挿絵みたいですね。(表紙の絵(てのり文庫)は、中の挿絵と絵がらが違うけれど…、誰でしょう?)

燕尾服のすそをひらめかせながら廊下を走って突進していくワンカさん、好き。
とても小さい人なんですね。

子どもたちの名前、
「バイオレット・ボールガード」の「ボールガード」って、バイオレットがボールみたいになることと関係あるのだろうか。
「マイク・テービー」の「テービー」って、テレビみたい。

「わたしには、子どももなければ、家族もない。となると、わたしが老いぼれて、足腰が立たなくなったとき、わたしにかわって、いったい、だれが、チョコレート工場を、経営するのです? 」(p.268)

このセリフにはじんときました。

「マツの木の王子」
キャロル=ジェイムズ 作/猪熊葉子 訳
フェリシモ出版



先日、フェリシモ出版の『ムッドレのくびかざり』を読んで、
うしろに載っている、他の出版物のリストを見て、この本を知りました。
猪熊葉子さんの訳。
読んでみたく思いました。

マツの木の林がありました。
まわりには、他の木もはえているのですが、
マツのはえているところには、他の木ははえません
マツの美しさはいちばんで、まんなかの林は、マツの木だけがおさめていたからです。
そのまんなかに、マツの王さまの土地があって、マツの王子さまもそこにいます。

そんなある日、たいへんなことが起こります。
マツの間に、しかも王子さまの隣に、シラカバの木がのびてきたのです。

マツの王子とシラカバの少女はお互いにすきになりました。

私は、シラカバの少女が切られてしまったとき、
王子がばったりと倒れるところが、印象にのこりました。

そこから、王子と少女の長い、生涯の旅がはじまりました。

猪熊さんの(?)「解説 原作者キャロル=ジェイムズについて」を読むと、
排他的なマツの王国は、イギリスの
「階級意識を風刺しているようにもおもわれます」(p.167)
とありました。
なるほどと思いました。
また、
「愛と犠牲への賛歌」(p.167)
はアンデルセンにも通じる、と。
そうですね、確かにアンデルセンを思わせる感じもする。

王子と少女は、「愛と犠牲」の後も、さまざまな困難に出会います。

「ふしあわせだったから、こちこちになって、きしんだんだよ。また、すっかり、もとどおりになったね!」(p.156)


盛り上がってクライマックス、の後の人生のほうが長いといってもいいです。

「ほとんどはしあわせにすごした、じぶんたちの一生」(p.161)

と言えて、よかった。


解説で、ジェイムズが尊敬している作家の中に、トールキンがはいっていたのが嬉しかった。

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